2007年01月30日 (火) 15:10 | 編集

モントリオール --- NHLモントリオール・カナディアンズは29日、ゴーリーとして輝かしい成績を残したケン・ドライデン(59)の背番号29番を永久欠番とするセレモニーを、ホームのベル・センターで行った。セレモニーは対オタワ・セネターズ戦の前に48分間にわたって行われ、試合はカナディアンズが3-1でセネターズを下した。
カナディアンズが永久欠番にするのは、ジャック・プラント(#1)、ダグ・ハーヴィー(#2)、ジャン・ベリヴォー(#3)、ベルナール「ブーンブーン」ジェフリオン(#5)、ハウイー・モレンツ(#7)、モリース「ロケット」リシャール(#9)、ギイ・ラフレール(#10)、ディッキー・ムーアとイヴァン・クルノワイエ(共に#10)、アンリ・リシャール(#16)に続いて12人目。
2009年に創立100周年を迎えるカナディアンズは、昨シーズンにジェフリオン、ムーア、クルノワイエの背番号を永久欠番にしたのを皮切りに、4シーズンにわたって毎年永久欠番セレモニーを行っていく。ラリー・ロビンソンの19番、現ジェネラル・マネジャー(GM)でキャプテンも務めたボブ・ゲイニーの23番、そしてゴーリーのパトリック・ロワの33番も永久欠番になると見られている。
1971年、カナディアンズでNHLデビュー。「トロント出身で若かった自分をケベックのファンが受け入れてくれたことに感謝したい」。満員の観衆による長いスタンディング・オベーションを受けた後、ドライデンは英語とフランス語を交互に駆使してスピーチした。
「どう感謝すればいいのでしょうか。私はここケベックに、モントリオールにいられて幸運でした。カナディアンズの一員としてモントリオール・フォーラムでプレイするという運に恵まれました。それはあなたがたファンからの贈り物です。ありがとう」
ドライデンは妻リンダ、二人の子ども、そして生後3週間の孫を伴って氷上に現れた。バッファロー・セイバーズのゴーリーとして活躍した兄デイヴ、カナディアンズ入団時の監督だったアル・マクニールも登場し、観客に挨拶した。
ドライデンの名前と背番号のバナーはキャプテンのサク・コイブと現在のゴーリー2人(クリストバル・ユーエとダヴィッド・エービッシャー)によって運ばれ、カナディアンズ側のゴールネットのすぐ前から天井に向かって上がっていった。カナディアンズ選手陣は全員がドライデンの29番のジャージを身に付け、ベンチから拍手を送った。
セレモニーでは、かつてカナディアンズを率いたスコティ・ボウマン、チームメイとのラリー・ロビンソン、そしてカナディアンズ最大のライバルであったボストン・ブルーインズの往年のスター選手ウェイン・キャッシュマンが、ジャンボトロンでメッセージを寄せた。
ドライデンを称えるスピーチをしたのは、1972年のサミット・シリーズでソ連代表チームのゴーリーを務めたヴラディミール・トレチャクだ。現在はロシアホッケー連盟会長の要職にあるトレチャクも、観客からドライデンのときと同じくらい温かいスタンディング・オベーションを受けた。
「私は1972年にカナダ代表と、そして1975年にモントリオール・カナディアンズと戦いました。私がこれまで見た中で、最高のホッケーでした。ケン・ドライデンのプレイはすばらしかった。彼はすごいゴーリーであり、ほんとうにすばらしい人です」
ドライデンは1971年から1979年までNHLでプレイした。その8年間のキャリアで獲得したスタンリー・カップは6回、最優秀ゴーリー賞に選ばれること5回。そして年間最優秀新人賞とプレイオフMVPにも選ばれた。
レギュラー・シーズンでは258勝し、負けたのはたったの57試合(引き分けが74試合)。ドライデンが在籍した頃のカナディアンズ黄金時代のチームには、ギイ・ラフレールやスティーブ・シャット、「ビッグ・スリー」と呼ばれたラリー・ロビンソン、セルジュ・サヴァール、そしてギイ・ラポイントの3人のディフェンスマンといった、伝説のスター選手たちが顔を揃えていた。
その時代のカナディアンズから今も残るイメージがある。190センチ近い長身のドライデンが、才能あふれる味方の選手たちが相手ゴールに襲いかかっている何分間もの間、自軍ゴールネット前で無造作にスティックにもたれて立つ、あの姿である。

しかし重要なセーブが必要とあらば、ドライデンはクリーズの中で大きな体を大の字にし、パックを止めるのだった。「見て、待って、ほとんど何もしないで」。自らの象徴となるポーズについて、ドライデンはそう観客に冗談めかして言った。「70年代はそんな時代でした。全てのスタンリー・カップもそうやって勝ち取ったのです」
8年しかプレイしなかったドライデンが永久欠番の栄誉に預かるのに十分なのかどうか、疑問を呈する向きもある。しかしドライデンのキャリアには、その勝利数やセーブ数以上のものが存在する。NHL史上、最も華やかで、最も多面的な人間的魅力を備えた選手の一人でもあるからだ。
弁護士であり、大学教授やオンタリオ州の公職に就いていたこともある。オリンピックではホッケー評論家としてテレビに出演し、トロント・メイプルリーフスの社長でもあった。ホッケーに関する本としてはおそらく最高の評価を受けている「ザ・ゲーム」を含む4冊の本も著している。
現在はトロント市ヨーク・センター選挙区選出のカナダ下院議員。2004年に初当選、昨年再選出され、社会開発担当大臣の要職にある。カナダ自由党総裁選に出馬したが、敗れた。
オンタリオ州ハミルトンで生まれ、トロントで育つ。1964年、NHLドラフトでボストン・ブルーインズから全体14位で指名を受けるが、アイビー・リーグの名門コーネル大学へ進学。1967年にはコーネル大ホッケー部をNCAA全米選手権優勝へと導いた。
ドライデンがブルーインズ入団を拒否したため、チームはその権利をカナディアンズへとトレード。1969年に大学を卒業したドライデンは、カナディアンズ傘下でモントリオールを本拠地とするマイナー・チームのヴォワヤジェールでプレイしつつ、マッギル大学で法律の学位を取得する。
カナディアンズに引き上げられたのは1970-71年のシーズン終盤。出場した6試合全てに勝利を収めたため、チーム首脳陣は、それまで先発として優秀な仕事ぶりを見せていたロガチャン・ヴァションに代えて、ドライデンをプレイオフのゴーリーとして起用することを決めた。プレイオフの相手は、ボビー・オーやフィル・エスポジートといったスター選手を擁し、リーグ屈指の得点力を誇ったボストン・ブルーインズだった。
ドライデンは堅守を見せ、シリーズ第7戦でブルーインズを退けただけでなく、続いてミネソタ・ノーススターズとシカゴ・ブラックホークスを下し、スタンリー・カップ優勝を遂げる。そしてプレイオフMVPとしてコンスマイス・トロフィも獲得したのである。
翌シーズンには64試合に出場し、年間最優秀新人賞のコルダー・トロフィを受賞。そして1972年のサミット・シリーズでは、シカゴのトニー・エスポジートと共にカナダ代表チームのゴールネットを守るという重要な役割を果たし、天王山の全8試合のシリーズでカナダがソ連を破るのに貢献した。
型破りなドライデンは、カナディアンズとの契約のもつれから1973-74年のシーズンをまるまる欠場。年間7500カナダドルの給料で、トロントの法律事務所で実務修習生として働くことを選ぶ。しかしそのシーズンにプレイオフ第1ラウンドでニューヨーク・レンジャーズに敗れたカナディアンズはドライデンと契約を結び、正ゴーリーをチームに取り戻した。
1976年から79年の4年連続でスタンリー・カップを獲得し、ドライデンはホッケー選手としての絶頂にあった。しかし79年、突然の引退を発表。まだ31歳だった。その4年後の1983年、ホッケー殿堂入りした。
キャリア最高の思い出は、サミット・シリーズと1976年のプレイオフでフィラデルフィア・フライヤーズのカップ3連覇を阻んだことだとドライデンは言う。荒々しいプレイで知られたフライヤーズをカナディアンズが下したことは、その当時、暴力的な威嚇に対する才能と巧さの勝利と見られた。
「私はフライヤーズが大嫌いだった。フライヤーズを負かすことは使命なのだとチームは思っていた。そして私たちはやってのけた。4連勝でね。ケイト・スミスにも勝ったのさ」(註:ケイト・スミスはフライヤーズの試合前に国歌を歌っていた歌手。彼女が歌えば、フライヤーズはホームでほぼ不敗というジンクスが当時あった)
メイプルリーフスの社長だったとき、ドライデンは背番号を永久欠番にすることに意義を唱えていたことがある。メイプルリーフスは、背番号を欠番にして永久に他の選手が使えないようにするよりも、功績を残した選手を肖像入りのバナーに残して称えることをポリシーとしているチームである。
しかしドライデンはカナディアンズからの永久欠番の申し出を受けた。カナディアンズとメイプルリーフス。伝統ある二つのチームに生きたドライデンは、セレモニー終了後、感動を隠さずに語った。「これで完成だよ。自分の背番号をモントリオール・カナディアンズに永久欠番にしてもらえるなんて、夢にも思わないものだろう? ただただすばらしい」
動画リンク:1979年プレイオフ、カンファレンス決勝:ブルーインズ@カナディアンズ(Google Video)
::: 私がNHLを見始めた頃(1998年)、ドライデンはリーフスの社長をしていました。最初は、なんだか眠そうな目をして、細かいことをごちゃごちゃ喋るムーミンみたいな顔のおっさん、という印象しかなく、カナディアンズで短くも輝かしいキャリアを築いた伝説のゴーリーだったという事実はその後に知りました。
コーネルとマッギルという米加の名門大で学んだ(しかもホッケーをやりながら)というだけでもすごいけど、31歳でサッサと引退して法曹の世界に転身したという点が、ドライデンが他のNHLerと一線を画している所以なのだと思います。文武両道のスポーツ選手の代表格みたいな人です。その後弁護士だけでは飽き足らず、政治家の道にまで突き進んじゃったのは、野心ギラギラって感じがしてちょっとアレですが。
ドライデンの引退から約30年、今こうしてかつてのプレイぶりを見てみて、この頃もしも私がNHLファンだったら、ドライデンのことを好きになっていただろうか?なんて考えてしまいます。どうかなあ、大好きなハブズの守護神だから無条件で応援はしていただろうけど、お気に入りの一人になったかどうか。でも背がスラリと高いドライデンがスティックにもたれかかって所在なげに立っているポーズはかなりかっこよく、絵になるゴーリーであったとは思います。願わくば、彼のように天からマルチな才能を与えられた長身の秀才ゴーリーがまたNHLに現れて、ファンをわくわくさせてくれないものでしょうか。
